コンチャ・ブイカ(Concha Buika)ってヤバすぎですね。
2009年10月28日水曜日
2009年9月13日日曜日
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Shall we ダンス?
投稿者
隴西之虎
時刻:
0:27

周防正行監督の『Shall we ダンス?』を鑑賞しました。実に素晴らしい映画ですね。見事の一言です。今作のコンセプトを的確に表しているのが、そのキャッチコピー「もう一度、人生に恋してみよう」。役所広司演じる主人公・杉山は、それなりに世間一般で言われる「幸せ」な人生を積み上げてきた平凡な中年サラリーマン。自分を愛してくれる妻も、可愛い娘も、立派なマイホームもあります。その順調で平坦な暮らしに何処か違和感を感じつつも、真面目を絵に書いたような毎日を送っていました。そんな彼が、ふと帰宅の電車の窓から見たダンス教室の窓辺に佇む憂いを湛えた謎めいた美女(草刈民代)に惹かれ、ふらふらと扉を叩いたことから社交ダンスの世界に足を踏み入れることになります。
この映画の何が素晴らしいかと言いますと、まず登場人物たちの造形が実に豊か。一人ひとりが強さ・弱さを抱え、それぞれ必死に人生を生きています。そうしたなかで、それぞれがダンスというものに生き甲斐を、目標を、プライドを、休息を、或いは安堵感を見い出し、己の人生を生きようとします。その切なさは、生きとし生けるものが皆抱える切なさでありました。そうした愛すべき人間たちを、周防は丹精に描き込んでいます。
軽快なコメディタッチも冴えを見せ、随所で観客は笑いを堪えきれないわけですが、よく考えるとかっこわるい屁っ放り腰の日本人が、そもそも社交ダンスを踊ることは明らかに喜劇的、というか悲喜劇的なわけですね。しかし、かっこわるい登場人物たちはそんなことは気にしない。誰がどう思おうが、ダンスによって自分の人生が生き返るのだと知っているからです。私はこれを見て、このかっこわるい(上記の写真を見てくださいよ)主人公たちを見て、しかし彼らこそが本当の意味で「かっこいい」人物たちだと感じました。自分の人生を真剣に愛している人たち、本気で自分の人生にぶつかっている人たち、それは眩いばかりに素敵で、輝いています。彼らは強く、魅力的です。なぜならば、彼らは誰に頼るのでもなく、自分の中に己の人生を測る本当の意味での尺度を持っているからです。
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坂口安吾は1942年3月に「日本文化私観」という有名な文章を雑誌『現代文学』に掲載しています。彼は、当時論壇で持て囃されていたブルーノ・タウト(Bruno Taut)の同名評論を批判することを意図して、この文章を執筆しています。
タウトは左派のドイツ人建築家で、ナチス政権に迫害されて日本に移ってきた人物です。ここで彼は、桂離宮を絶賛し日光東照宮を酷評したことで有名な日本文化論を展開します。近代日本が安易な西洋化を進めて、優れた伝統文化を破壊してしまったことを嘆くタウトの日本文化論。これは在日西洋人の日本観に繰り返し見られた(或いは現在形の「る」)ひとつの「型」ですが、彼の議論は昭和期の反西洋的な時代精神が喜色満面で受け入れるものとなったのです。青年将校のファナティックな国粋主義から当時を代表する知識人たちによる「近代の超克」論まで、議論のレベルの差はあれ、そこにあったのは西洋的思考枠組みで己の内に非-西洋(=非-近代)を発見し、それを「日本的なるもの」と同一視することで西洋と対置される己を確保しようとする、逆説的に幾重にも「西洋」という束縛に囚われた原理主義的な反-西洋論でした。
坂口はそうしたタウトそして同時代のそうした風潮を批判するために「日本文化私観」を書いたのです。彼は表面的な「スマートさ」「かっこよさ」「洗練」といったものを一顧だにせず、「純粋なる文化」「光輝ある伝統」「他と隔絶した優越性」といったマッチョな観念を笑い飛ばします。それらは恣意性にまみれた当てにならぬものであって、それゆえ真の美へと繋がり得るはずがないと。正統性・純粋性・伝統性といった権威主義的な価値基準に無効を宣言する彼は、真の美へ繋がるものは「必要性」であると喝破します。どんなに蟹股の日本人が背広を着ていっぱしの西洋人気取りでチョコチョコと歩いている光景が滑稽至極なものであっても、そこに彼らが切実に必要性を見い出し、己の人生の中で意味を認めるものであるのならば、それは美しい。雄大な野山が切り崩され掘り崩されて醜悪な工場の排煙が立ち込めても、そこに必要性がある限り、それは美しい。そのように坂口は述べたのです。
この映画の中で社交ダンスを一生懸命に踊って人生に充実を感じ、新しいステップを憶えてはしゃいでいる主人公たちは、同じ理由で美しいのです。例えば、近所の公民館脇でゲートボールに興じている老人連、可笑しな改造バイクでブンブンと騒音を撒き散らす金髪のヤンキー、行く人に見向きもされず街角で下手なギターをかき鳴らすアマチュアギタリスト、メイド喫茶に通い詰めるアニメオタク。彼らは確かに戯画的で、滑稽に映るかもしれません。しかし、それは何を基準にしているのでしょうか。そのように怖いもの知らずに一刀両断できるのは、盲目的に己の価値観を信奉して他者理解の可能性を切り捨てている人々だけです。そして彼らこそが、映画内で青木(竹中直人)の記事を見つけて哄笑の種にする職場の人々であり、真に滑稽で戯画的な存在なのです。
自分をよく理解して、たとえ多数派には理解されなくても自分なりの「必要性」を見い出せる人たちを私は尊敬します。そう、それは正にこの映画内で生き生きと社交ダンスを踊る、最高に幸せそうな主人公たちのような人たち。そんな人たちに、私は最大の尊敬の念を払います。
2009年9月2日水曜日
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8½
投稿者
隴西之虎
時刻:
0:08

フェリーニ(Federico Fellini)監督の『8½』を鑑賞。傑作として名高い作品ですが、私はあまり入り込めませんでした。フェリーニの映画は『道』『フェリーニのローマ』の二作品だけ観ていて、趣向がだいぶ違うとはいえ両方とも気に入っていたので、映画史上に残る金字塔と讃えられる今作には結構期待していたのですが。
基本的にこれは創作のスランプに悩む映画監督グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)の苦悩が中心に据えられており、そこに私生活の泥沼や過去の追憶、幻想・夢想が交錯してきます。観客は何重にも枠を嵌められた高次のメタストーリーの交錯として映画を解釈しなければいけません。グイドが撮ろうとしている映画内の世界と、グイドが生きている世界(=フェリーニが撮っている映画の中身)はいつの間にか交錯し、どこからが「夢」でどこからが「現実」かわからなくなるように意図的に作ってあります。もちろん、グイドはフェリーニの分身であり、『8½』という映画を撮るフェリーニの生きる現実世界がそこに投影されているわけで、更にどこまで映画内のメタ階層世界を現実と交錯させるか、という頭が痛くなるような難題を観客は提示されます。
確かにこの幻惑的な世界観は、とても興味深いものであるのは事実です。映画を作っているとその中身と現実の境界が曖昧になっていくというのも、映画製作に携わっている人々に共有される不思議な経験なのかもしれません。映画を語る映画、その自己言及性のパラドックスがさまざまな可能性を秘めているものだということは、多くの野心的な映画人に意識されてきたことでしょう。
しかし、正直私は映画監督の苦悩や芸術家の苦悩などを力説されてもピンと来ません。自分と繋がるものを何かしら見出したときには、そして映画がそれについて何か私に新たな示唆をくれたときには、私はそれに価値を見い出すでしょう。この映画を観ても、結局「映画撮るのって大変なんですね。お疲れ様です。」くらいの感想しか出てこないわけですよ(笑)。一般人ですから。
というわけで、一般人がこの映画を観てどこを楽しむのかがイマイチ私には判りかねるのですが、どなたか教えてくださる方いたらコメントでも下さるとありがたいです。うーん、それともみんなは「この虚構と現実の混乱がいいね」とか「メタ性の多重構造が万華鏡のようだ」とかアタマで考えて楽しむんですかねえ?私はどうしても、それが面白いと自分を無理矢理納得させてから面白がる、みたいな感じになっちゃうんですが(苦笑)。
2009年8月30日日曜日
2009年8月28日金曜日
2009年8月20日木曜日
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人物で読む現代日本外交史
投稿者
隴西之虎
時刻:
11:20
佐道明広・小宮一夫・服部隆二編『人物で読む現代日本外交史 近衛文麿から小泉純一郎まで』の関係あるところだけ読み散らかし。以下、そのまとめ。酒井哲哉先生の論文「「英米協調」と「日中連携」」(『年報・近代日本研究 11 協調政策の限界』収録)、波多野澄雄の論文「戦時外交と戦後構想」(細谷千博・入江昭・後藤乾一・波多野澄雄編『太平洋戦争の終結 アジア・太平洋の戦後形成』収録)も参考にしました。
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I. 戦時外交
1. 近衛文麿
若き近衛は第一次大戦後に論文「英米本位の平和主義を排す」を発表し、「正義人道」に依拠して米国の理想主義を列国対外膨張の「機会均等」と読み替え、イギリスの「旧外交」的国際秩序の打破を期待しました。戦間期の国際秩序には失望して、国粋主義へ傾斜。満州事変からの大陸拡張政策を正当化し、軍の統制確保のために政治家が「先手」をとることを唱えます。日中戦争の勃発を見た第一次内閣では軍の統制に苦慮しながら天皇を利用しつつ参謀本部を牽制するも、その結実は皮肉にも第一次近衛声明でした。やがて内閣を改造し路線修正を試み「東亜新秩序」を唱えますが、日中戦争解決も対英米関係改善にも挫折します。第二次・第三次内閣では大政翼賛会などで軍への指導回復を図るも失敗、対米交渉も打開できませんでした。近衛には日本の拡張路線を米国が理解してくれるとの願望にも似た信念があったようです。
2. 佐藤尚武
「武士道外交の体現者」と呼ばれた佐藤。国際連盟に一貫して深く関わって国際協調の実績を築き上げるも、満州事変以降の潮流に逆らえずに連盟脱退の憂き目を見ます。短命の林内閣で外相となり、日中関係改善・資源不平等是正・自由貿易確保を軸に外交の建て直しを図るも時間切れに。ただし日満支経済ブロックや近衛三原則支持をもしており、その外交理念は再考が必要です。戦後は重光とともに国連加盟に立ち会いました。
3. 松岡洋右
米英主導の国際秩序の解体、反ソ反共、対米衝突回避の三つを柱として据えて、奇抜な外交を展開した松岡。第二次近衛内閣の外相となると、イギリス帝国崩壊を期待して日独伊三国同盟と日ソ中立条約を成立させ、南進政策の下地を整えました。彼は対米関係決裂回避を至上命題としており、これらでもって米国からの譲歩を引き出そうとしたのです。米国が強硬姿勢に転じて日米開戦の危険性が高まりを見せると妥協に転じるも、ドイツの対ソ開戦決意を知って北進政策への転換を主張します。二転三転する外交姿勢に愛想をつかされて孤立した松岡は、結局内閣から放逐されました。
4. 東郷茂徳
親ソ派として知られた東郷は、イデオロギーを超えた国益ベースの日ソ関係構築を唱えます。駐ソ大使として地道な関係改善を進めてソ連の信頼を勝ち取り、第二次近衛内閣の松岡外相下で日ソ中立条約に取り組むも途中で外されました。東條英機内閣では外相となり日米交渉を担当するも、結局決裂・開戦。大東亜省設立をめぐる首相との確執で辞任します。鈴木貫太郎内閣で再度外相となり、ソ連の仲介に望みをかけるもソ連参戦。親ソの幻想の頸木から解かれた彼は、無条件降伏方針を主導しました。
5. 重光葵
中国ナショナリズムに敏感だった重光は、元来それを包摂しうるワシントン体制を評価していました。第一次幣原外交で見られた「対中配慮」から、濱田雄幸内閣で外相に復帰した幣原喜重郎に期待するものの、その対英米協調偏重姿勢に失望し、高まる「革命外交」潮流を前に焦燥します。これに対応できぬワシントン体制を見限った彼は、満州事変を受けた対応においては連盟の介入を嫌って直接交渉路線を推進します。遭難後は療養から回復して外務省復帰し、廣田弘毅外相下で外務次官として「協和外交」路線を主導。何とか「日中提携」を実現させようとしますが、軍部の怒涛の攻勢の前には実を結びませんでした。二・二六事件後は海外勤務となり、欧州の戦争に関与することの非を訴え続けます。東條内閣の東郷外相下で汪兆銘政権の駐華大使となり、更に対中政策の転換を条件として東郷の後任となり、同政権の自主性をある程度認めることに成功、大東亜会議開催にも尽力します。この会議開催に当たっては、大西洋憲章を参照しつつ普遍性の高い概念・理念でアジア地域秩序を組み立てようと外務省のイニシアティブを取ります。小磯国昭内閣に留任するも、対中方針で首相と対立して内閣総辞職。東久邇宮稔彦内閣で再度外相となり、降伏文書に調印します。東京裁判で七年の禁固刑に服した後に改進党総裁・日本民主党副総裁となり、鳩山一郎内閣の外相となるも大した成果は残せませんでした。彼の花道となった国連加盟演説では、日本は「東西の架け橋」とならんと述べて、戦前からのアジア主義志向の片鱗を窺わせました。
6. 昭和天皇
戦前の昭和天皇像は、能動的権力者と受動的君主の二つのイメージに分裂しています。明治憲法下の天皇の政治的役割に対しては論争があり、立憲君主としてのコンセンサスが定着した大正期以後も、西園寺公望などが志向した全権委任型と政党政治の補完的役割を果たす英国型のあいだに緊張が見られます。天皇自身は後者志向が強く、特に能動的役割を果たしたのは張作霖爆殺事件処理をめぐる田中義一首相の進退問題、二・二六事件への対処、終戦の「聖断」の三回とされます。しかし果たすべき役割については、二つの理念型のあいだで揺れ動いていたと見るべきでしょう。天皇の政治化は、「御心を歪める君側の奸」というかたちで下からの攻撃を招きかねなかったのです。敗戦後は占領政策に積極的に協力して日本再建を支え、新憲法下で象徴天皇となりました。
II. 講和と安保
1. 吉田茂
「古典外交」を信奉する親英派外交官の吉田は、1920年代にあって対英米協調と大陸利権を犠牲にしても内政不干渉を墨守する第一次幣原外交には批判的でした。彼は、中国問題はナショナリズムに対する日本の譲歩ではなく、列強の「帝国」協調によって解決されると考えます。「外交の一元化」を除けば、田中外交はこのような見地から支持すべきものでした。列国協調に力点を置いた第二次幣原外交において、吉田は幣原に接近します。廣田内閣ではイギリス大使となって三年のあいだ日英関係改善に苦闘しました。退官後の日米開戦前夜には、戦争を回避すべく絶望的状況の中で孤軍奮闘。開戦後も早期和平を唱え続け、憲兵隊に逮捕までされます。戦後は四度に渡って内閣を組織し、占領軍と良好な関係を保ちながら再建を進めます。講和に当たっては西側との講和の現実路線を採り、日米安保体制と軽軍備の「吉田路線」を打ち出しました。
2. 芦田均
1932年に外交官から政治家に転じた芦田は、軍部に活動を制約されつつも非翼賛系議員として戦時期を生き延びます。戦後は日本自由党創設に関わって、憲法改正草案審議を取りまとめました。この際の新憲法第9条の「芦田修正」は有名ですが、これは外交官歴から来るリアリズムに起因していたのかもしれません。やがて党内で孤立化した彼は民主党を結成して総裁に就任。幣原・吉田ら穏健保守層よりも民主化改革により親和性の高い中道派を自任していた彼は、社会党・国協党と連立政権を組みます。GHQ民政局の強力な支援の下で片山哲と自分の両内閣を運営するも、短命に終わっています。日米安保を現実的に構想した点では吉田と共通していましたが、日本再軍備について芦田はより積極的で、講和に際しては吉田と「再軍備論争」を繰り広げます。自民党成立後は次第に影響力が翳っていき、日本は彼が望んだ「普通の国」路線ではなく「吉田路線」を走っていくことになりました。
3. 鳩山一郎
鳩山は政友会議員として犬養毅・齋藤實両内閣で文相を務め、翼賛選挙には非推薦・無所属で当選します。戦後は日本自由党を結成して総裁となり、総選挙で第一党となるも首相就任目前で公職追放となり、吉田に政権を預けます。このあいだに行われた数々の占領改革に彼は批判的で、追放解除とともに反吉田路線を明確にし、改進党と日本自由党の反吉田派が合流して日本民主党を結成して、内閣を組織。「自主外交」を掲げて日ソ国交回復・憲法改正を目指し、前者をやり遂げて引退しました。
4. 岸信介
農商務省・商工省の革新官僚として鳴らして満州国経営に辣腕を振るった岸は、東條内閣で商工相となるも、サイパン陥落を機に首相と対立し倒閣に持ち込みます。戦後巣鴨に収監されるも釈放・公職追放となります。追放解除後は日本再建連盟・自由党・日本民主党を経て、自民党初代幹事長に就任。内閣を組織すると藤山愛一郎を外相に据えて「国際連合中心」「自由主義諸国との協調」「アジアの一員としての立場の堅持」の外交三原則を掲げ、戦後外交の指針を確立します。日米関係の改善・強化を目的として安保条約の抜本改正を行い、「東南アジア開発基金構想」や賠償・経済協力によって野心的な東南アジア外交を進めます。しかし前者が彼の予想だにせぬ空前絶後の大衆運動を招き、政権の命取りとなりました。辞任後も反共右派の領袖として、党内の親韓国・親台湾勢力を代表しました。
5. 池田勇人
6. 佐藤榮作
III. 国際国家日本の苦悩
1. 田中角榮
2. 福田赳夫
3. 大平正芳
4. 中曾根康弘
5. 竹下登
6. 宮澤喜一
7. 橋本龍太郎
8. 小泉純一郎
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人物で読む近代日本外交史
投稿者
隴西之虎
時刻:
5:01
佐道明広・小宮一夫・服部龍二編『人物で読む近代日本外交史 大久保利通から広田弘毅まで』を読了。井上寿一著『危機のなかの協調外交』も参考。以下、内容まとめ。
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I. 条約改正と朝鮮問題
1. 大久保利通
大久保は岩倉使節団の欧米渡航で列強との国力差を痛感し、征韓論者を牽制して内治優先を主張します。台湾出兵は強硬論者への安易な妥協であり危機を招きますが、「責任を回避しない」で収拾に当たって解決に導きました。
2. 伊藤博文
伊藤は大久保や木戸孝允と同様に欧米渡航で内治優先論となり、大久保暗殺後には政府中核を担います。内閣首班として第一次内閣の井上馨外相、第二次内閣の陸奥宗光外相に条約改正を託し、後者で成功させました。この際には一貫して衆院に跋扈する対外硬派を退け、穏健路線を支持します。第二次内閣では日清戦争と三国干渉に対応しますが、この際にも現実主義路線を堅持します。ロシアとの緊張が高まると日露協商論の主唱者となって交渉に当たりますが、日英同盟が締結されるとこれを歓迎します。日露戦争後の満州権益に関しては、中露の反発と地域不安定化を考慮して門戸開放路線での満州経営を主張しました。1905年には初代韓国統監に就任し、併合論を排して穏健な経営路線を唱えるも、桂太郎や山縣有朋ら強硬論に敗れ去りました。
3. 黒田清隆
黒田は北海道開拓使長官として対露関係に気を配り、榎本武揚を派遣して樺太・千島交換条約を締結せしまます。また日朝修好条規締結に際しては、薩派実力者として対外硬派の牙城たる自派を抑えるために、正使として対応しました。しかし大隈重信外相を配した首班内閣においては条約改正に手酷く失敗し、政治的打撃を受けます。以後は自派の榎本や西徳二郎など薩派外交担当者をバックアップして、対露関係を中心に大津事件への対応や西・ローゼン議定書締結などを支えました。日露関係悪化の端緒となった義和団事変の年に急逝したのは、象徴的でした。
4. 山縣有朋
熱狂的な攘夷論者だった山縣は四カ国連合艦隊下関砲撃事件で衝撃を受け、以後現実主義者へと転じます。征韓論・台湾出兵をめぐっては対外強硬派に組せず、軍備増強による着実な国力培養を優先しました。日清戦争前には「主権線」「利益線」概念を説いて朝鮮半島への関与を唱え、朝鮮の永世中立国化を主張します。日清戦争後も基本的に現実主義に立脚して日本外交の主軸を形成します。日露戦争後は当初ロシアの復仇を憂慮して満州経営に及び腰でしたが、清の国権回復運動に刺激されて積極路線に転じます。韓国併合をめぐっては桂首相と同一歩調をとり、伊藤の穏健路線を潰しました。辛亥革命で清の強国化の可能性がなくなると、彼は「支那保全」論に転じて北京政権支援を主張し、西園寺公望内閣と対立します。また大隈内閣の第一次大戦参戦にも慎重で、二十一ヵ条要求と反袁政策を批判しますが、大正政変で政治力が弱体化していたために押し切られました。寺内正毅政権では政治力が復活し、「支那保全」の立場から政府の段祺瑞支援策を支持します。シベリア出兵に対しては帝政ロシア支援という観点から支持し、その見込みがなくなると撤兵に傾いて原敬首相を支持しました。
5. 井上馨
井上は急進的な欧化主義者で、大上段に構えた派手な構想を好みました。第一次伊藤内閣では外相として大胆な条約改正交渉を進めるも、国内の反対論を押さえきれず失敗します。第二次伊藤内閣では、朝鮮公使に赴任して日清戦争勃発後の朝鮮内政改革(第二次甲申改革)を実施、これも結局頓挫します。この後には外交指導には携わらず、日露戦争後の満州・朝鮮への経済進出を民間のイニシアティブを重視する立場から支援しました。二十一ヵ条要求については、対外関係を傷つけたことに極めて批判的でした。
6. 青木周蔵
青木はたたき上げの外交官であり、筋金入りのドイツ通として知られた人物です。第一次山縣内閣と第一次松方正義内閣で外相を務め、条約改正をあと一歩のところまで進めながら、大津事件で辞任に追い込まれます。このときに伊藤・井上と疎隔を生じたとか。この後駐独公使として転出し、第二次伊藤内閣の下でイギリスとの現地交渉の責任者となります。彼の尽力もあり、1894年に日英通商航海条約が締結されます。その後、第二次山縣内閣で再び外相となりますが、義和団事変解決後に独断で対露強硬策をとって暴走し、内閣崩壊を招いてしまいます。外交官らしからぬ最後でした。
7. 陸奥宗光
陸奥は伊藤に才能を見出され、一時反政府計画に携わった逮捕歴にも拘らず外交官となります。黒田内閣下では、駐米大使として領事裁判権を撤廃した日墨就航通商条約を締結します。第一次山縣内閣では農商相に抜擢され、第二次伊藤内閣で外相となって条約改正を達成します。この際には、林董や原敬といった非藩閥の逸材を配下に抜擢して交渉に臨んでいます。衆議院の対外硬派に対しては、伊藤とともに断固たる姿勢で立ち向かいます。日清戦争と三国干渉にあっては政府方針策定の主導的役割を演じるも、その後すぐに急逝しました。彼は首相伊藤の全面的信頼があったからこそ、外相として後世に名を残す仕事を行い得たのだと言えます。
II. 「帝国主義」外交の時代
1. 小村寿太郎
小村は「帝国日本」興隆期をさまざまな意味で象徴する外交官です。駐清公使時代には、義和団事変後の北京議定書の締結交渉に全権として出席し、交渉に当たりました。第一次桂内閣では外相を務め、林駐英公使に権限を与えて日英同盟を調印せしめます。日露戦争前には伊藤等よりも強硬な姿勢をとり、戦時中は日英同盟改定を推進。ポーツマス講和会議には全権として参加して本国よりも強硬な姿勢を見せるも、妥結に転じました。第二次桂内閣で再び外相となり、高平・ルート協定で日米関係を調整し、韓国併合を主導します。タフト(William H. Howard Taft)米政権のドル外交や対清四カ国借款団などを受けて、第二次日露協約を結んで満州権益を確かなものにします。1911年には米英などと新通商航海条約を結び、関税自主権完全回復を成し遂げました。
2. 林董
旧幕臣だった林は榎本外相の下で外務次官となり、陸奥外相の下でも続投します。1900年に駐英公使となり、小村外相の下で日英同盟交渉に携わりました。第一次西園寺内閣では加藤高明が辞任した後に外相を引継ぎ、日露・日仏協商を締結しました。これによって念願の日英露仏の多角的同盟が形成されます。この時期不安定要素として立ち現れてきたのは、移民問題で揺れる日米関係とナショナリズムが勃興する中国との関係の二つであり、現実的解決を志向する林も特に後者に悩まされることになります。結局内閣は短命に終わりました。
3. 牧野伸顕
大久保の次男たる牧野は、一貫して協調外交の担い手として活躍しました。第一次山本権兵衛内閣で外相となり、中国で相次いだ日本人殺傷事件や米国の移民排斥問題などに対して、世論の激昂を横目に冷静な対応をします。寺内内閣では外交委員会で委員を務め、シベリア出兵に原とともに反対します。ウィルソン(Woodrow Wilson)米大統領の「新外交」提唱に対しても、積極的に呼応することを政府に働きけるも、採用されませんでした。パリ講和会議では全権委員として出席し、山東利権確保には成功するも、人種差別撤廃条項盛り込みには失敗します。この後は宮中に移り、西園寺とともに欧米協調・中国内政不干渉の幣原外交路線を支持しました。
4. 加藤高明
親英派の外交官・政治家として有名な加藤。第四次伊藤内閣で外相に抜擢され、イギリスと結んでロシア南下を抑止しようとしましたが、内閣は短命に終わりました。日英同盟論者として桂や小村に近いものの、日露開戦に慎重な点では伊藤や原に近い立場でした。また彼は「外交一元化」や「内閣の連帯責任」、外交文書公開推進などで先見性を見せます。しかしポーツマス条約には在野で反対の強硬論を唱え、第一次西園寺内閣で外相に返り咲くもすぐ辞任するなど迷走。第二次桂内閣で駐英大使となり、日英通商航海条約・日英同盟改訂を行って日英親善に努めました。第二次大隈内閣では第一次大戦参戦を主導するも、「外交一元化」路線が元老や軍との摩擦を生み、二十一ヵ条要求の強行は大失敗します。辞任後は憲政会の穏健外交政策を定着させるも、山東権益には固執。元老の忌避を招き政権から長らく遠ざかるに至って、改心。念願の首相就任をすると幣原を外相に据え、協調外交を推進しました。
5. 石井菊次郎
情報収集と事務処理に長じた勤勉実直な外交官、石井。第二次大隈内閣で辞任した加藤の跡を継ぎ外相となり、第四次日露協約を締結してロシアの注意を極東から欧州に逸らそうとします。寺内内閣では対米特使として日米協力交渉に当たり、門戸開放と日本特殊権益の双方を記載した石井・ランシング協定を結びます。その後国際連盟やジュネーヴ海軍軍縮会議で日本代表を務め、多国間協調の役割を高く評価しています。しかしのちに満州事変が起こると満州国承認に賛意を示し、これと多国間協調との折り合いを模索しようと苦心しています。
6. 後藤新平
衛生官僚・植民地官僚として名を馳せた後藤。台湾・満州時代にはさまざまな奇抜な外交構想をぶち上げています。寺内内閣で内相・外交調査委員会委員となり、シベリア出兵をめぐり米国同意を条件とする寺内と同一歩調を採ります。本野一郎外相辞任後にはその座を襲うも、外務省の立場に絡めとられ、その独自性は消えていきました。しかし後年、東京市長として日ソ国交回復の端緒を作ったのは注目に値するでしょう。
III. 戦間期
1. 原敬
早くから米国の重要性を強く意識した原は中国問題は即ち米国問題だと理解し、欧州重視の同時代的政治家・外交官と一線を画します。大隈内閣の二十一ヵ条要求を批判し、寺内内閣では外交調査会に列して内政不干渉から援段政策には冷淡な立場を、対米協調からシベリア出兵に慎重な立場を採ります。組閣後は内田康哉外相を据えて中国の北方派援助停止と対中外交機関の統一を図り、シベリア駐留兵力の大規模削減と英米協調的な干渉路線を採りました。しかしこれらは短期的な効果が薄く、一時的には日米関係悪化さえ齎しています。パリ講和会議ではウィルソンの「新外交」路線に呼応した現場の牧野らを支持します。日英同盟と日米協商の両立を考えていた彼は、ワシントン会議参加を通じた多角的条約システムの受容へ踏み切るも、直前に暗殺されました。彼が先鞭をつけた政党政治と対米協調政策は、死後の1920年代に全盛を迎えることになります。
2. 幣原喜重郎
「幣原外交」の名を呼んだ協調外交の外交官、幣原。しかしその実像はより複雑です。彼は駐米大使時代には全権としてワシントン会議に参加し、四カ国条約(日英同盟破棄、太平洋現状維持)と九カ国条約(中国の門戸開放、機会均等、主権尊重)の交渉に携わります。加藤高明内閣で外相に就任、北京関税特別会議では付加税率をめぐって非妥協的な姿勢をとります。第一次若槻禮次郎内閣でも留任し、蒋介石の北伐進行中の1927年に起こった南京事件では、軍事介入を拒否して英米と一線を画します。ここでは、内政不干渉や軍事的手段の否定といった原則を墨守する姿勢が窺えます。濱口雄幸内閣で外相に返り咲くと、幣原は対英米協調に重心を移して吉田茂と接近しロンドン海軍軍縮条約を締結せしめます。一方で北伐と国権回収運動が進む中国に対しては、有効な施策を打ち出さぬ儘に終わります。第二次若槻内閣でも留任して満州事変に直面した彼は、重光葵の意見を容れて日中の直接交渉による解決に望みを繋ぎ、連盟介入を忌避しようとしました。内閣瓦解後は世間から忘れられるも、戦後再び組閣して天皇制存続と新憲法制定に携わり、晩年には衆議院議長として「吉田路線」を支持しました。
3. 田中義一
第二次大隈内閣では上原勇作とともに参謀本部で反袁政策・シベリア出兵の主唱者だった田中は、寺内内閣の政友会・陸軍省重視路線を受けて路線を変じていきます。原内閣で陸相に就任すると、その協調外交主義を支えて山東半島とシベリアからの撤兵政策を推進。その後は宇垣一成と連携して陸軍の「院政」を敷き、軍縮・近代化を進めました。1925年には政友会総裁に就任して幣原外交を批判、二年後に組閣して外相も兼務します。当初彼は蒋介石による漸進的本土統一と張作霖を利用した満州経営を思い描いていましたが、党内掌握力の脆弱性から党内官僚勢力の積極外交論への妥協を強いられて東方会議や山東出兵を行いますが、逆に党内の不安定化を招きます。済南事件はまったく予期せぬ痛恨事でした。北伐に焦慮した関東軍一部は暴走して張作霖を爆殺、田中外交は崩壊しました。古巣の地盤たるはずの陸軍での田中・宇垣路線の揺らぎが、田中に止めを刺したのです。
4. 内田康哉
第二次西園寺内閣で外相に就任した内田は、辛亥革命に対応します。イギリスにイニシアティブを奪われた日本は、満蒙進出を狙って第三次日露協約を結んでいます。次には原内閣で外相となり、後続の高橋是清内閣・加藤友三郎内閣にも留任します。この時期にはパリ講和会議及びワシントン会議において、列国協調に基づく戦後体制の構築に日本を参加せしめます。また持論のシベリア駐留兵削減を実行に移すも、途中日本人虐殺事件で強硬策への転換を余儀なくされ、最終的に1922年に撤兵決定します。その後枢密顧問官となり不戦条約を全権として調印するも、条約文が国体違反との野党批判を受けて顧問官を辞職します。そして満鉄総裁時代に満州事変が勃発を見、やがて関東軍に同調します。齋藤實内閣で再度外相となると満州国問題に関して強硬姿勢を主導し、「焦土外交」演説を行うに至ります。関東軍の熱河攻撃を止められない状況では、制裁を回避して列国協調を維持するために連盟脱退も已む無しとした内田は、脱退後の大国協調によって外交再建を望むも、暫くして死去しました。
5. 有田八郎
廣田弘毅内閣の外相となった有田は、軍部の政治介入の常態化と日本の国際的孤立の中で、同様の境遇にあるドイツとの提携を模索して、日独防共協定を結実させます。第一次近衛文麿内閣では宇垣の後を襲って三人目の外相となり平沼騏一郎内閣でも留任します。ここでは「東亜新秩序」建設を謳った第二次近衛声明を受けてこれの推進を図りながらも、米英との摩擦を避けようとするトリッキーな外交を試みるも挫折します。米内光政内閣の外相に就任した彼は、対米関係改善と日中戦争終結という阿部信行内閣の方針を引き継ぐも、南進論の高まりに抗しきれず内閣は崩壊します。
6. 廣田弘毅
1930年代の日本外交を象徴する人物、廣田。元来は欧米派だったものの、外務省の反主流派たるアジア派に次第に傾斜していきました。齋藤・岡田啓介内閣で外相を担当し、「協和外交」と呼ばれる緊張緩和外交を展開します。しかし陸軍の華北分離工作に対して抵抗できず、「廣田三原則」による打開策も失敗、現状追認・ロンドン海軍軍縮条約脱退に傾きます。二・二六事件後首班となった彼は、支那駐屯軍増強、軍部大臣現役武官制の復活、「国策の基準」策定、日独防共協定成立など破滅的施策に終始します。第一次近衛内閣では外相となり、塘沽停戦協定締結後の師団増派強行には賛成。ドイツを介した和平工作を画策するも、やがて第一次近衛声明で見切りをつけます。結局は軍部の圧力に屈し世論に迎合した外交となったのです。
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